ワーグナーの自己犠牲

 ワーグナーのオペラで多発する、女性の自己犠牲による解決。これをフェミニズム的視線によって批判することがあまりにも稚拙だと僕は思うのだが、それについて述べようと思う。

 むろん、僕は文学作品或いはそれに準ずるジャンルにおける女性の自己犠牲が、必ずしもマッチョイズムを逸脱しているとは言わない。
 たとえば近代日本の文学等の領域において、女性の自己犠牲を含んだ作品というのはとても多い。堀辰雄から村上春樹、宮﨑駿まで。彼らの作品では男性が個人的な事象に熱中するがあまり、社会的な事象との間で大きな溝が生まれる。そこで社会に対してコミットするが、必ず誤りが生まれる。そこを補填するために、女性が存在する。女性の自己犠牲的な愛が、彼の社会的な事象からの乖離を正当化させる。日本の男根主義マッチョイズムというのは、自分より弱いもの(この場合本当に肉体的に弱い女性=か弱い女性性が選ばれることが多い)に依存し、奉仕させ、責任を取らせることで守ってもらうという構図であると思う。
 つまり近代日本(の文学作品)においては、自己犠牲は二人称であり、一人称は常に守られる男根。それが頭に刷り込まれているから並列に見てしまいがちだけれども、しかしワーグナー作品は全く違う。ワーグナーのオペラも確かに女性の自己犠牲が男性を救ったりするのだけれども、ワーグナーの自己犠牲は--例え男性の主人公が他にいたとしても--必ず一人称的であると。何故ならパルジファルのストーリーが語る通り、「共に苦しむことによって知を得る」、つまり苦しみへのシンパシーが何かを達成する=カタルシスに起因するから。これはワーグナーが崇拝するベートーヴェンの(ワーグナーにおける)聴き方と同じで、暗から明へのドラマトゥルギーが作曲家の苦しみを代弁し、それを共苦として感情移入することでカタルシスを体験出来ると。だからパルジファルにおけるパルジファルは真の主人公ではなく、彼の存在はストーリーの大筋を伝えるためのツールに過ぎず、アンフォルタスもそうであるが、最大の主役はクンドリと言っても過言ではない。その理由としては、やはり最後のせりふ「救済者に救済を」を「苦しむ者へ、苦しみのシンパシーを抱け」と僕は解釈するのだが、そういうことだとである。だからワーグナーにおける女性の自己犠牲は決して、男根主義による精神を女性に助けてもらわなければ生きていけない依存しなければ自立できない男の欲望ではなく、自己犠牲自体に美学がありそこに共感させることでカタルシスを得させるという、そういうことではないのか。さまよえるオランダ人でも、最後に両者が死ぬが、やはり「救われる」よりも「救う」という能動的動作によって得られるものの方が、偉大ではないかと思われる。

自己犠牲は一人称となって初めて、本来の美しさを光らせるのだ。

ヴィム・ヴェンダースを観た

もう日付的には一昨日のことになるが、早稲田松竹でヴィムヴェンダースのドキュメンタリー映画2本立てを観てきた。

ひとつめはキューバの老齢ミュージシャンを描いた『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』。国家の変遷とそれを乗り越える音楽みたいな感じだったけれど、キューバという特殊状況の国を使用した、過去と前時代への憧憬に過ぎないミュージックヴィデオに思えた。あまり作品として面白いとは言い難い。

2本目は報道写真家セバスチャン・サルガドを追った『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』。胡散臭いタイトルである。しかし、さっきの映画と打って変わって、洗練された画面や挿入される痛ましい美しさを持った写真たちが作品に深みを与えてゆく。構成としてはありふれてて、社会的事象から人間の闇を写した写真を撮っていたサルガドが、対象を美しい大地に乗り替えるという感じであったが、ただただ自然が美しすぎてやられた。自然の美しさを際立たせるためだけの90分、いや、自然の美しさを際立たせるためだけの50年近い半生を先に見せられたようでもある。

ドキュメンタリーを2本見終わったあと、立ち上がったときに4時間座りっぱなしだったことに気がついた。いてて。

社会的芸術

いつの世も社会というものは問題点で溢れている。そういったものに警鐘をならすのも芸術家の役割のひとつだし、逆に悪い事象があったから生まれた名作も多い。
ブリテンの戦争レクイエムなんて最たる例だろう。良心的理由で兵役を拒否し、故郷イギリスが対戦に加われば渡米した平和主義者のブリテン。彼が最も忌み嫌ったものは戦争であるだろうが、その忌み嫌ったものがなければ彼の音楽はあそこまで素晴らしくはならなかった。実際に戦争レクイエムのスコアの冒頭にも「私の主題は戦争であり、戦争の悲しみである」と記されているのだ。
社会的な芸術は様々なジャンルで存在する。ピカソゲルニカ小林多喜二蟹工船ロバート・キャパの戦争写真たち。
確かに反戦というあまりにも大きなテーマだったら、そのテーマを一生続けることができる。それは戦争というものがこの世からなくなることは、残念ながら考えられないからである。しかし、たとえばもうすこし小さな事象を主題としている場合はどうだろう。原子力発電所セクシャルマイノリティ、環境汚染、いじめ。いじめも確かになくならないものだろう。では芸術家は自分の作品が社会に対してほとんど効力を持たないことを自覚しながらも、作品を作るのだろうか。逆にセクシャルマイノリティの問題だったら、近いうちに解決するやもしれぬ。運動的にセクシャルマイノリティがマイノリティではなく普通のことだと訴えかけ続け、それが幸運にも実現したとしたら、その作品たちは作品でもなんでもないただの絵や文になってしまう。
それを全て認知した状態で作品を作るというのは、欺瞞にならないのだろうか。しかし、芸術家は医者ではないし、芸術は薬ではない。

芸術とはなんだ。

ブログ

垂井のブログを見て、ブログを開設してみた。ブログをやるなんて何年ぶりだろう。思えば僕にとって最初のインターネットでの他人との交流の場はブログであった。twitter世代なんて称しているけれど、僕にとってのデジタル乳母車はブログだ。

twitterという文字数制限のなかで窮屈に生きている僕、たまにはもう少し広いところで足を伸ばしてみよう。もちろんここも、檻の中なんだろうけどね。