社会的芸術

いつの世も社会というものは問題点で溢れている。そういったものに警鐘をならすのも芸術家の役割のひとつだし、逆に悪い事象があったから生まれた名作も多い。
ブリテンの戦争レクイエムなんて最たる例だろう。良心的理由で兵役を拒否し、故郷イギリスが対戦に加われば渡米した平和主義者のブリテン。彼が最も忌み嫌ったものは戦争であるだろうが、その忌み嫌ったものがなければ彼の音楽はあそこまで素晴らしくはならなかった。実際に戦争レクイエムのスコアの冒頭にも「私の主題は戦争であり、戦争の悲しみである」と記されているのだ。
社会的な芸術は様々なジャンルで存在する。ピカソゲルニカ小林多喜二蟹工船ロバート・キャパの戦争写真たち。
確かに反戦というあまりにも大きなテーマだったら、そのテーマを一生続けることができる。それは戦争というものがこの世からなくなることは、残念ながら考えられないからである。しかし、たとえばもうすこし小さな事象を主題としている場合はどうだろう。原子力発電所セクシャルマイノリティ、環境汚染、いじめ。いじめも確かになくならないものだろう。では芸術家は自分の作品が社会に対してほとんど効力を持たないことを自覚しながらも、作品を作るのだろうか。逆にセクシャルマイノリティの問題だったら、近いうちに解決するやもしれぬ。運動的にセクシャルマイノリティがマイノリティではなく普通のことだと訴えかけ続け、それが幸運にも実現したとしたら、その作品たちは作品でもなんでもないただの絵や文になってしまう。
それを全て認知した状態で作品を作るというのは、欺瞞にならないのだろうか。しかし、芸術家は医者ではないし、芸術は薬ではない。

芸術とはなんだ。